日本勤労者山岳連盟創立60周年

  1. 日本勤労者山岳連

創立60周年、講演・式典     

11月14日 13時より、神田明神ホール

前日名古屋駅23時30分発、夜行バスで東京へ、三列シート、カーテンで座席毎が仕切られている。きょうは、満席でした。ぐっすり休んで東京へ。

東京駅6時30分頃到着、講演は午後からなので、時間がある。皇居二重橋から、竹橋、近代美術館、最高裁判所、桜田門と、約30分かけて、歩きました。多くのマラソンランナーが走ってました。皇居を周回したのは初めてです。

神田明神です。東京駅から歩きです。途中秋葉原は、何かイベントが有るのか、行列が出来てました。

神田明神は、七五三のお参りで、賑やかです。境内の明神ホールで、記念講演です。

明神ホールは、300名ですが、参加150名間隔を開けての講演です。

最初に浦添理事長の挨拶です。60年の労山を振り返る内容でした。特に理事長は、長崎県出身でもあり、核問題に熱のこもった話でした。核兵器禁止条約が来年早々施行される、それに日本は参加していない事を残念と言われました。登山は、平和があって楽しめる、まして海外登山は平和だから出来る事です。           

私は、政治に首を突っ込む事は嫌いですが登山と平和を末長く続く事を願いたいと思いました。

山岳保険の現状と労山基金 

川嶋 高志 事務局長

1960年労山が誕生した当時は、多くの遭難事故があり、若い命が亡くなりました。私が記憶しているのが、愛知大学山岳部が薬師岳で遭難、立山奥大日岳の雪崩遭難です。多くの犠牲の中で、仲間のカンパから始まった、最初は一口500円で遭難対策基金と言われました。労山誕生から11年です。登山者の救済は、日本登山会のなかで最初です。

2006年頃に、オレンジ共済の大きな詐欺事件が有りました、詐欺事件が起きない様に、共済制度を廃止、労山基金廃止の危機に直面しました。廃止問題は、詐欺だけでなく外資の圧力も大きな原因だった。今では当たり前の外資の保険。労山は、登山者の命がを守れと、抗議一揆をしたり、国に陳情を重ねだそうです。基金を存続する妙案として、労山が一年分の基金を立て替えて、会員には一年後に支払ってもらう事で、保険料と見なされない、詐欺行為が起きない事が認められ、現在に至っている。

近年登山人気の中で色々の登山保険が出来て来ました、日本山岳救助機構ジローは、会員数が5万人を越えました。労山基金は、昨年より、労山基金団体2種を見直して、労山基金個人と二本立にする事で、より会員に寄り添った物になりました。他の保険にない、登山の種類や、突発性事故・病気にも支払われる、通院・入院の健康保険から支払われない費用の補助。海外登山での遭難・救助・怪我にも保証される。最近では、遭難・救助の基金支払いの半分近くが海外登山です。

労山基金は、遭難や怪我、病気の保証だけでなく、登山技術を会員に広めています、そして海外登山で挑戦する人の支援、登山文化の発展に寄与しています。それを支えているのは、会員一人一人です。相互扶助の精神で、支えているのは、日本勤労者山岳連盟だけです。

以上、川嶋さんが話された事を、要約しました。

K2 ~ シリアへ

小松 由佳 フォトグラファ 

現在38才の秋田生まれ、言葉には、経験を積んだ、真のある女性です。はしはしに出る名言は、感動と言うか、納得、決意を感じました。彼女がK2に憧れたのは、写真で見たカラコルムのシスパーレと言う山に登りたい、その為には当時は女性入部禁止の東海大学山岳に入り、3Kを乗り越え、4年生では、部長になっていた。卒業後、ヒマラヤ最初のチャンスは、世界中の女性登山家で、エベレストを目指すのに選ばれ参加、ほとんどが中国チベット民族、彼女達は国家公務員で生活も優遇された人ばかり、結果は高度順応が間に合わず、断念。2回目の挑戦が、東海大学のK2アタック。ベースキャンプをC1からC3を作る中で高度順応やチームワークを築いて行く、日本人からすると安いお金で雇われたポーター達との交流、そして生きたまま連れて来られる。ヤギや牛に愛着を注ぐも、生きて行くために、殺され食料になる、ありがとうと念じた。最終アタックメンバー3人に選ばれ、ベースキャンプを立つ、リーダーが盲腸でリタイア、二人の登頂となる。青空が見えるかと思えば、ホワイトアウト、先が見えない不安の中、無事登頂。しかし登頂はただの折り返し点と現実にぶち当たる、下山は生死をさまよう。予兆の様な不協和音、それを何度か体験して、多くの死者を見た体験から、状況を断ち切る必要を感じて、8200mで、ビバーク、結果は運良くあさを迎え、下山にいたった。生きて居ることが、かけがいのない感謝と念じた。その登山の後に、夢に描いた、シスパーレの登頂のチャンスを受けるが、途中で断念、自分のいる場所は、違う所に有ると感じたと彼女は言う。さだまさし、の歌にも有りましたが、ヒマラヤのポーター達の瞳や、現地の子供の、目の輝きに見せられて、遊牧民と生活をして、シリアの地にたどりつく、家族を大事にしてゆとりのある暮らし、裕福ではないが、生活の過程が心引き付け、フォトグラファの道に生きる決意をする。シリアで長く共にした、シリア男性と結婚、二人の子供を持ち暮らしている。そこにある彼女の信念の根底に、K2で知った命の尊い洞察と感謝の念が今の私を支え生かしてくれていると、講演を締めくくった。

 

 

 

 

 

 

 

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